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名古屋高等裁判所 昭和63年(う)344号 判決 1989年2月27日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人寺澤弘、同木下芳宣、同加藤洋一及び同柴田義朗が連名で作成した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官長谷川三千男が作成した答弁書に、それぞれ記載されているとおりであるから、これを引用する。

第一  控訴趣意中、「原判示の日時場所において、北進中の甲野太郎こと乙太郎運転の普通乗用自動車(以下「被害車」という。)に被告人運転の普通貨物自動車(以下「被告人車」という。)が追突するという事故(以下「本件事故」という。)が発生したことは原判決認定判示のとおりであるが、本件事故は、被害車運転者において、たまたま被害車と被告人車との車間距離が約一〇メートルであったことに乗じ、被害車が被告人車に追突されたことにより傷害を負ったと主張したうえ保険金を騙取することを企て、被害車の直前に左側車線から車線変更して来た白色車両との衝突を避けるためと称して、あえて被告人車の直前で急停止し、そのため、被告人車が急制動の措置を講したが間に合わずに被害車に追突したという経緯によって現出したものであって、そもそも、被害車の直前に左側車線から白色車両が車線変更して来たという事実が果たして実在したかどうかということそれ自体が極めて疑わしいのみならず、仮に、白色車両のかかる車線変更が実在したとしても、被害車運転者において、単に一瞬急制動措置を講じるだけでなく、白色車両が走り去った後も、被害車の直後に被告人車が追従しているのにもかかわらず、引き続き急制動措置を講じ続け、被害車をそのまま急停止させてしまうまでの必要性は全くなかったのであり、したがって、本件事故発生当時の道路状況や交通状況にかんがみると、被告人を含む自動車運転業務従事者としては、被害車が被告人車の直前でいきなり完全に停止するという事態が発生するかも知れないということまでも予見することはできなかったといわなければならず、その他、本件事故の発生に対して被告人に過失があったことを認めるに足りる証拠は、原審で取り調べられた各証拠中にはないから、かかる事態が発生するかも知れないということを予見することができたとの前提の下に、本件事故に対して被告人に過失があることを肯認したうえ、原判示の事実を認定判示した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある。」との主張について

一  所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して検討するに、原審第一六回公判期日での訴因変更以後の訴因で構成されている本件公訴事実は、「被告人は、自動車運転業務に従事する者であるが、昭和六〇年五月二六日午前一一時一五分ころ名古屋市中川区五月通一丁目二二番地先道路において、被告人車を運転し、南方から北方に向かい被害車に約五〇ないし六〇キロメートル毎時の速さで追従するに際し、被害車が急停止又は減速してもこれに即応した措置をとることができるだけの車間距離を保つべき業務上の注意義務があるのに、わずかに一〇メートル前後の車間距離を置いたのみで追従した過失により、被害車が左側車線から車線変更して来た車両との衝突を避けるため急停止したのを認め、急制動措置を講じたが問に合わず、被害車に被告人車前部を衝突させ、よって乙太郎に加療約一か月を要する頸部挫傷等の傷害を負わせた。」というものであるのに対して、原判決は、原判示の罪となるべき事実のとおり、被告人車の制動開始直前における被告人車の速さについて、「約五〇キロメートル毎時」、当時の状況下で自動車運転業務従事者に要求される注意義務の内容について、「先行車両が急停止してもこれに追突するのを避けるだけの車間距離を保つべき注意義務」、被害車の制動開始直前における被害車と被告人車との車間距離について、「9.5メートル前後」、被告人が急制動措置を講じた原因について、「被害車が左側車線から車線変更して来た車両(これは、原判決の「事実認定の補足説明」中の「白色の普通乗用車」又は「白色乗用車」のことであり、この車両を以下「白色車両」という。)との衝突を避けようとして急停止したのを認めたため」と認定した点を除き、本件公訴事実と同一であり、結局、原判決は、検察官主張の訴因のとおり、被告人車が被害車に追従走行している際の車間距離不保持という被告人の過失により本件事故が発生したと認定判示していることになるところ、原審で取り調べられた各証拠によると、以下(1)から(8)までの事実が認められ、右各証拠中には右認定を動かすに足る証拠は見当たらず、当審における事実取調べの結果によっても右認定は左右されない。

(1)  乙太郎は、昭和五九年一二月に普通自動車運転免許を取得したばかりであり、本件事故の際には、初心運転者標識を表示した被害車を運転していた。

(2)  本件事故現場は、南北に走る片側三車線ずつの市道名古屋環状線が片側二車線ずつに狭まった通称黄金陸橋の頂上の手前七〇ないし八〇メートル前後の地点であり、右黄金陸橋の頂上は、右市道名古屋環状線と北東方向から南西方向に走る道路とのY字形交差点を形成し、この交差点に向かって右黄金陸橋を北進してくる車両は、本件事故当時、道路標示により、この交差点で左折しかできないことと規制されていた。なお、この交差点の信号機は、かかる車両に対しては、交差点手前での停止と交差点での左折とを交互に指示するように設定されていた。

(3)  被告人は、本件事故の直前ころ、右市道名古屋環状線北行車線の中央車線(第二車線)を約五〇ないし六〇キロメートル毎時の速さで被告人車を運転して北進し、右黄金陸橋に差し掛かった際、中央線寄りの車線(第三車線)に車線変更し、そのまま右黄金陸橋(そこの北行車線は、前記のとおり片側二車線であるが、便宜上、中央寄りの車線を「第三車線」、その西側の車線を「第二車線」という。)を走行していた。

(4)  そのころ、被害車は第二車線上を北進中、右黄金陸橋に差し掛かり、第三車線上の被告人車の進路前方に割り込むという形で第三車線に車線変更をし、その後被告人車の前を北進し続けていた。

(5)  そのため、被告人車は、被害車に追従することとなり、本件事故の直前には、一〇メートル前後の車間距離を保ったうえ被害車に追従しながら第三車線を走行する形になったが、その時点で被告人が前方にある右黄金陸橋の頂上付近の信号機を見ると、左方向の青矢印信号を表示していたのを確認したので、被告人は、被害車が右信号に従って走行して行くものと考え、右程度以上に車間距離を空けることなく走行し続けた。

(6)  ところが、そのころ、被告人車とほぼ同じ速さで走行中の被害車のやや北方の地点で第二車線上を北進していた白色車両が、いきなり、方向指示器で合図もせずに、被害車の直前に割り込む形で第三車線に車線変更をした(ただし、その時点では、白色車両の進路前方の第三車線上には、付近に北進車両は存在しなかった。)ため、乙太郎は、白色車両への追突を避けるため、直ちにブレーキペダルをいっぱい踏み込んだが、白色車両が後記(7)のとおり加速したうえ走り去って行こうとしているにもかかわらず、そのままブレーキペダルをいっぱいに踏み続け、その結果、被害車はそのまま完全に停止してしまった。

(7)  白色車両は、以上のとおり車線変更をし(そのころ、白色車両が一瞬制動を掛けたか否かは不明である。)、その後直ちに加速しながら走り去り、前方にある前記交差点で、前記規制を犯して右折して行ったが、白色車両が前記(6)の車線変更をしてから右折して行くまでの間、第三車線上では被害車の前方には、白色車両以外に、これと同様に車線変更して来る他の車両があったとか、他の車両が停止していたとか、路面状況が異常であったとかいうように、車両の円滑な走行にとって邪魔になるような事態は何もなかったし、被害車が前記(4)の車線変更をしたときから前記(6)の急制動をしたときまでの間、被害車の走行状況には格別異常と目すべき点は何も見当たらなかった。

(8)  被告人は、前記(5)のとおり前方の信号機が左方向の青矢印信号を表示しているのを確認したが、その際、そのことに一瞬気を取られるなどしたため、白色車両が前記(6)の車線変更をしたことには、被害車の前記(6)の急制動操作を被告人が確認したときより前の時点では気付かず、しかも、被害車が右の急制動をかけたのに気付くのも一瞬遅れ、被害車と被告人車との車間距離が約6.3メートルになった時点で初めて、被害車の右の急制動と白色車両の右の車線変更とに気付き、自分も急制動措置を講じ、そのままブレーキペダルを踏み続けたが間に合わず、前記のとおり完全に停止していた被害車に追突した。

二  ところで、前記一の(6)から(8)までの各事実に関連して、原判決は、その「事実認定の補足説明」中において、乙太郎やその同乗者であるAの原審公判廷における各供述等に依拠したうえ、「白色車両が被害車の直前に車線変更して制動したため、被害車運転者が驚いて急制動をしたのであり、かつ、被告人は、被害車の右の急制動に気付いた時点よりも前の時点で、被害車の前方に白色車両が車線変更しているのを視認していた。」と認定説示しているが、この認定は、以下の理由により事実誤認といわざるを得ない。

(1)  白色車両が前記一の(6)の車線変更をしたころにおいて白色車両の制動灯が点灯したのに被害車運転者が気付いたこととか、更には、白色車両の制動灯が点灯したこととかの各事実の有無についての資料は、原審及び当審で取り調べられた各証拠の中には、証人乙太郎の原審第三回公判期日における「白色車両が割り込んでブレーキペダルが確か少し見えました。」との供述があるのみであり、この供述が「白色車両の制動灯の点灯を見た。」という趣旨の供述であるとしても、かかる供述の信用性を支える資料が原審及び当審で取り調べられた各証拠中に何ら存在しないのみならず、原審及び当審で取り調べられた各証拠によって明白な、「第三車線上では白色車両の前方には車両がなく、かつ、白色車両が前記一の(6)の車線変更の後、直ちに加速して北方に走り去った。」という事実に照らすと、信用できないといわざるを得ない。ただし、白色車両の制動灯が右の車線変更のころ点灯したことは全くないという事実も、これを認めることができず、したがって、結局のところ当裁判所としては、かような制動灯点灯はなかったということを前提として判断を進めざるを得ない。

(2)  被告人の捜査官に対する供述によると、被告人は被害車の制動灯点灯に気付いた時点よりも前の時点では、白色車両の前記一の(6)の車線変更には気付いていなかったことが明らかであり、原審及び当審で取り調べられた各証拠中に右認定に反するものは皆無である。

三  しかるところ、前記一の(1)から(8)までの各事実に基づき、本件事故に対する被告人の過失の有無を検討するならば、白色車両が前記一の(6)のとおり車線変更をしたので、被害車運転者が白色車両への追突を避けるため突然ブレーキペダルを踏むという措置を講じるということ自体は、特に初心運転者標識掲示の自動車の運転者の反応として極当り前のことであり、そのような場合、被害車に追従する車両の運転業務従事者としても、これを容易に予見することができ、また、これを予見していなければならない事柄であるとはいい得るであろうが、白色車両が、前記一の(6)の車線変更をした後、そのまま加速しながら走り去る態勢にあるにもかかわらず、前記の速さで走行中の被害車運転者が、いきなり、ブレーキペダルをいっぱいに踏み込み、その後も依然として急制動措置を解除することなく、ブレーキペダルをいっぱいに踏み込み続け、そのため被害車が停止してしまうという事態は、前記認定の被害車の走行していた車線前方の道路状況や交通状況の下では、一般の自動車運転業務従事者の考えから見て、明らかに異常な事態であるといわざるを得ず、それ故、右状況の下で被害車に追従している車両の運転業務従事者において「被害車は、その前方に他車両が割り込んできた場合、いきなり制動操作をすることはあっても、その後は直ちに右制動措置を解除して走行するであろう。」、換言すれば、「被害車運転者がそのままブレーキペダルをいっぱいに踏み込み続けて被害車を急停止させてしまうことはよもやあるまい。」と考えることは、現今の交通秩序にあっては社会通念上一般的に許されるところであって、結局、被告人には前述の異常事態、すなわち、被害車の前記一の(6)の急停止までをも予見し得る可能性はなく、したがって、被告人はかかる急停止を予見すべき義務までをも負っていなかったものというべきである。そして右判断は、被告人がたまたま白色車両の前記一の(6)の車線変更に気付かなかったという事実によって何ら左右されないし、また、被害車に初心運転者標識が表示されていたという事情を考慮に入れても、先に認定したように、前記一の(6)の急制動をしたときまでの間、被害車の走行状況には、格別異常と目すべき点は何も見当たらなかった本件においては、何ら変わるところがないというべきである。

そうだとすると、被告人車が被害車に追従走行しながら本件事故現場の直前付近にまで到達するまでの間、被害車と被告人車との車間距離をわずかに一〇メートル前後しか保っていなかったという被告人の運転方法は、車間距離の保持義務を定めた道路交通法の条項に違反する運転方法に該当するものであったけれども、本件事故に対する過失を構成する注意義務違反行為であるとは断じ得ないことになる(ちなみに、被告人は、前記認定のように、前方の信号機が左方向の青矢印信号を表示しているのに一瞬気を取られるなどしたため、白色車両の前記車線変更に気付くのが遅れ、また、被害車の前記急制動に気付くのが一瞬遅れてしまったことが認められるが、被告人車が被害車とはわずかに一〇メートル前後の車間距離しか保たないで約五〇ないし六〇キロメートル毎時の速さで走行していたという状況の下では、たとえ被告人が白色車両の右の車線変更に即座に気付き、更に、被害車の右の急制動に直ちに気付いたとしても、なお、本件事故の発生は不可避であったものと考えられるところ、被告人に対して右の車間距離を超える車間距離の保持義務を肯認し得ないことも前述のとおりであるから、前記一の(8)の各発見遅滞をもって本件事故に対する被告人の過失と認定することもできない。その他、記録を精査し、当審における事実の取調べの結果を参酌しても、本件事故に対する被告人の過失を認定することはできない。)。

四  したがって、結局のところ、本件公訴事実は、犯罪の証明が十分でないといわざるを得ないところ、原判決は、前記に説示したように、「白色車両が被害車の直前に車線変更して制動したため、被害車運転者が驚いて急制動をしたのであり、かつ、被告人は被害車の右の急制動に気付いた時点よりも前の時点で、被害車の前方に白色車両が車線変更しているのを視認していた。」と誤った認定をし、更にこれを前提としつつ、「事実認定の補足説明」において、「被害車に本件事故現場付近で急停車する必要がなかったと断ずることはできないし、被告人は被害車の右急停止を予見することが可能であったというべきである。」として被害車の前記一の(6)の急停止につき予見可能性を肯定し、もって、被告人車が被害車に追従走行中の車間距離不保持を本件事故に対する被告人の過失とし、有罪の言渡しをしているのであって、この原判決には、事実を誤認し、ひいては法令の解釈適用の誤りを犯した違法があり、かつ、その誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由があることに帰する。

第二  よって、控訴趣意中、その余の主張について判断するまでもなく、原判決は、刑訴法三九七条一項、三八二条、三八〇条によって破棄を免れないので、同法四〇〇条但書によって当裁判所において更に判決するが、前示のとおりの理由により、本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するから、同法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官山本卓 裁判官油田弘佑 裁判官向井千杉)

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